狒々門の奥の入江のむじな島にて。

大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。

『グリーン・ブック』第一話

「なんで、結婚しないの?」

 

ミドリは、濁った池に向けて手のひらに掴めるだけの無数の小石を投げ入れて、それから、その小石の群れがおそらくは池の底に届いたくらいの間を置いてから、ぼくの左手に少しだけ触れて、ぼくの方は向かずにそう言った。

 

その池のどこからかはわからないが、数匹のウシガエルがゴウゴウと鳴きはじめ、時々周囲を自動車が走り抜ける音が聞こえた。

 

ぼくは、水面に描かれた小石たちの軌跡たる淡い輪を見つめながら、ミドリの問いに答えるべきかどうか迷っていた。その輪は本当に淡いもので、ぼくの迷いに足る時間を与える間もなく、水底の小石の群れを追うようにして、シュンと音を立ててすぐにおそらくは水の中へ消え失せてしまった。

 

「なにか他のこと考えてたのかなぁ〜、聞こえた、私の言ったこと?」

 

ミドリはもう一度ぼくの左手を、今度はもう少しはっきりと触ったまま、その後にギュッと握りしめた。

 

「うん、」

 

ぼくはミドリの方は向かずに、右手で地面に転がる細かな砂利を無造作にかき集めてから、眼の前の池の中にばらまいた。その砂利は緩やかな散弾銃の弾みたいに、くすんだ水面を揺らめかせた。

 

ミドリの手の熱が、瞬時に汗をかくほどに強く感じられた。

 

「まねっこかな。」

 

「えっ?」

 

「わたしのまねっこしてるのかな、なにかのゲームかな。」

 

ミドリの方に目を向けると、彼女は空を見上げていて、口元には笑みを浮かべていた。

 

「なんで、いままで、けっこんしなかったのですか、きみは?って聞いたんだよ。」

 

「うん、ちゃんと聞こえてるよ、聞いてないわけじゃ、」

 

「ほんとかな、聞こえてないみたいな顔してたけど。」

 

「そんなことないよ、聞こえてたよ、ただ、」

 

「ただ?」

 

「いや、ただ、ちょっと考えてたんだよ。」

 

「なにを考えてたの?」

 

「きみの問いをさ、」

 

「わたしの問いを。」

 

ミドリは小さな木くずを池に向けて投げ捨てた。

 

「なんでかって言われても、」

 

「なんでかって言われても?」

 

「そうだよ、なんでかなあって、おれも自分で考えてて。」

 

ミドリは少し黙って、また空のずっと上の方を見つめてから、なんだかやけに楽しそうに笑い声をあげた。

 

「わたしは一度結婚したの。でも、もう別れたの。クソみたいなやつでさ、なんでわたし、あんなやつと結婚なんかしたんだろうって、時々、昔見た嫌な夢みたいに、ずっと追いかけてくる悪夢みたいに思い出すんだ。だからさ・・・、あっ、ジュンヤって呼んでもいいの?それとも別な呼び方がいい?」

 

「ああ・・・、好きなように呼んだらいいんじゃないかな、それはおれが決めることじゃないから。」

 

「え〜。」

 

「なんだよ、え〜ってさ。」

 

ミドリは何かが可笑しかったらしく、ずっとくすくす笑っていた。

 

「じゃあ改めて聞くよ、ジュンヤはさ〜、なんで結婚しないのかな?」

 

ぼくはミドリの方に一瞬顔を向けてから少し息を吐いて笑って、足元の小さな石をひとつ拾い上げて、池には投げ込まずに手のひらで握りしめた。