狒々門の奥の入江のむじな島にて。

大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。

ウェブログタイトル『狒々門の奥の入江のむじな島にて。』についての考察【其ノ壱】「天人」と「ひょん」のこと。

『狒々門の奥の入江のむじな島にて。』とは

日本の中国地方のとある場所に、古くから「狒々門(ヒヒモン)」と呼ばれている一対の自然巨石柱があり(一説には自然石ではなく人工的なものだとも言われているが)、その奥にある海に突き出た半島の入江にポツンと浮かぶ「むじな島」という小島の辺りでは、しばしば天人(テンニン)らしきものと、それが連れて歩く山のように大きな猿の如きものが目にされている。ぼくはひょんなことから、そのむじな島を臨む土地で暮らしはじめることになり、その初日に、天人らしきものと大きな猿の如きものを目撃する。

 

「狒々門の奥の入江のむじな島辺にて、大猿の如きものを連れた天人らしきもの磯へ上がるを見る。その日から、ぼくはずっとここにいます。」

 

このウェブログのタイトルにおけるコンセプトは、現段階では、簡単に説明するとこんな感じである。

 

天人とはなんだ?

天人とは、一般的な定義でいうと、もともとはインドの民族信仰に基づいている超自然的な存在で、仏教でいうところの六道の最上位である天上界の六欲天に住んでいる人々(まあ衆生なのかな)の総称である。

 

仏教にはご存知のように「六道」という世界観がある。地獄界(←大いなる罪人が罪を償うのはここ)、餓鬼界(←餓鬼どもはここ)、畜生界(←馬畜生とか牛畜生はここ)、修羅界(←阿修羅はここ)、人間界(←ぼくたち人間はここ)、天上界(←天人たちはここ)、六道なので「界」ではなく「道」とも書くが。またさらに、六道の上に声聞(しょうもん)界、縁覚(えんがく)界、菩薩界、仏界を加えた「十界(じっかい)」という世界観もある。

 

この六道のうち、地獄界(地獄道)から人間界(人間道)まではいわゆる欲望(淫欲とか食欲とか)に捉われた世界で、すなわち「欲界」という。しかし天上界(天道)は天上界でさらに細部に分けられていて、上に行くほど欲から離れてゆく。欲界の上には「色界」があり、さらにその上に「無色界」がある。この三つを「三界」という。

 

六欲天」という6つの階層

 ただ、天上界はその中でも人間界に近い下部の6つの天においては、依然として欲望に束縛される世界であり、天上界ではあるのだけれど三界の中の欲界に含まれていて、それを「六欲天」という。

 

そして、この六欲天は前述のように6つの天(階層みたいなものだろう)に分かれていて、上から順番に、

 

  • 第六天「他化自在天(たけじざいてん)」
  • 第五天「化楽天(けらくてん)」あるいは「楽変化天(らくへんげてん)」
  • 第四天「兜率天(とそつてん)」あるいは「覩史多天(としたてん)」
  • 第三天「夜摩天(やまてん)」あるいは「焔摩天(えんまてん)」
  • 第二天「忉利天(とうりてん)」あるいは「三十三天(さんじゅうさんてん)」
  • 第一天「四大王衆天(しだいおうしゅてん)」

 

となっている。

 

ちなみに六欲天の一番上の他化自在天、いわゆる第六天には、 例の第六天魔王波旬(だいろくてんまおうはじゅん)が住んでいる。

 

こうやって見てみると、仏教における世界観は、なんだかディストピアな近未来のSF映画に登場する超高層マンションのような構造になっているのだなあ。最下部あるいは地下層には貧者や犯罪者が暮らしていて、上にゆけばゆくほど限られた特権階級の富裕層の居住スペースになっているという構図。

 

天人五衰」という5つの兆候 

せっかく六欲天まで言及したので、もう少しだけ天人のことについて補足すると、「天界に住んでいる超自然的な存在だから、不死なんだろうなあ」となんだか漠然と思うかもしれないが、天人も死ぬのである。まあ長寿は長寿らしく、第六天にいる天人に至っては1万6千歳(最高寿命か平均寿命かわからないが・・・)だというし、その一尽夜は人間の1600年に相当するとか・・・、どんだけ長いねん。けれど、そんな天人に死が近づいた時には、5つの兆しが現れると言われている。

 

これを「天人五衰(てんにんのごすい)」という。

 

じゃあそれってどんな症状なの?最近世界を騒がせている例のウイルスの初期症状みたいなものなの?というわけで、簡単にその症状をあげると、

 

  1. 衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服が垢で油染みる
  2. 頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
  3. 身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
  4. 腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
  5. 不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がる

 

なんかブラック企業に勤めるストレスフルで病んでしまったサラリーマンのような症状だが、 この天人五衰の時の苦悩に比べたら、人間が地獄で受ける苦悩もその16分の1ほどにしか満たないと言われているので、想像を絶した苦痛なのだろう、そんな死に方嫌だなあ・・・。

 

ウェブログタイトルにおける「天人」像

とまあそんなわけで、狒々門の奥の入江で目撃されている天人とは、この六欲天に住んでいる人々、ということになるのである。そして、ウェブログのタイトル画像Ver.1.0で描いている天人は、なんとなく「飛天(ひてん)」あるいは「天女」をイメージしている。実はむじな島のモデルにしている入江の小さな島は、地元の漁師たちの聖地となっていて弁財天(地元の古老は水弁天とか言っていたかな)を祀る祠が二箇所存在するらしい。天人、飛天、天女、弁財天・・・、天女と言うと地球外の知的生命体との関連が囁かれていたりもするので、今後の物語の方向性として一考の余地あり。

 

天人

 

この流れで、高橋留美子による『うる星やつら』の弁天が頭をよぎる。

 

 

余談だが、このむじな島のモデルになっている島には、正体不明の巨大な鳥類と、さらには黒ヤギが住んでいるという噂も耳にしたので、近日その詳細も探ってゆかなければなるまい。怪鳥と黒ヤギ・・・、なにやら魔術めいた予感。

 

さて、文章を書いていてちょっと気になったことがある。本筋からは脱線するが、冒頭でぼくが使った言葉、「ひょんなことから」の「ひょん」っていったいどんなことなのだろうか?

 

「ひょんなこと」の「ひょん」ってなんなの?

「ひょんなこと」、話し言葉ではあまり使わない気がするが、文章などを書いていると割と使いがちな言葉。

 

「ひょんな」をgooの国語辞書で調べてみると、以下のような説明がある。

 

[連体]思いがけないさま。意外な。妙な。「ひょんな縁で知り合いになる」「ひょんな気を起こす」

 

さらに文学作品における例文として、織田作之助 の『神経』や太宰治の『女生徒』から引用がなされている。

 

二つとも私自身想いだすのもいやな文章だったが、ひょんなところで参ちゃんと「花屋」の主人を力づける役目をしたのかと思うと、私も、「ぜひ伺います」と、声が弾んで、やがて「花屋」の主人と別れて一人歩く千日前の通はもう私の古里のよう

織田作之助 『神経』より

 

神経

神経

 

 

仕方なく、アンブレラとお道具を、網棚に乗せ、私は吊り革にぶらさがって、いつもの通り、雑誌を読もうと、パラパラ片手でペエジを繰っているうちに、ひょんな事を思った。自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、

太宰治 『女生徒』より

 

女生徒 (立東舎 乙女の本棚)

女生徒 (立東舎 乙女の本棚)

 

 

ひょんの意味や使い方はまあ調べずともなんとなくわかるんだけれど、でも、“ひょん”って何なのさ?ということになるのだが、このひょんの語源には、有力な二つの説があるという。

 

『同文通考』による華音凶ひよん説

 

まずひとつは、漢字の「凶」という文字に由来するというもの、この唐宋音から転じたのがひょんであるとする説である。

 

これは新井/筑後守/源/公/白石 著・新井/白蛾/祐登 補校による全四巻からなる江戸中期の文字研究書『同文通考』(1760年・宝暦10年刊行)の巻二「漢音呉音」の項、新井白蛾による補校の中に記述がある。

 

俗に物の好からざることをすべてひよんなことと云ふ、凶の字の華音凶ひよんと云より、言ひ傳へて常語となり

 

新井白石 著・新井/白蛾 補校『同文通考』巻二「漢音呉音」

新井白石 著・新井白蛾 補校『同文通考』巻二「漢音呉音」

『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館等所蔵)

 

また、江戸後期の諺語辞典、松葉軒東井 編の『譬喩尽(たとえづくし)』にも、「凶ひょんなこととは凶の字の唐音なり」とある。

 

この説によればもともとは凶、つまりはあまり良くない、好ましくないことを指し示す言葉だったようだ。

 

イスノキの別名「ヒョンノキ」、ひよんの木の実説

 

もうひとつは、イスノキという植物の別名である「ヒョン」という名前に由来するというもの。

 

イスノキ(蚊母樹、柞、Distylium racemosum)とは、暖地に自生するマンサク科の常緑高木で、別名を「ユスノキ」とか「ユシノキ」、そして「ヒョンノキ」という。

 

Distylium racemosum5

 

これは安原貞室 著による京都方言の研究書『片言』巻五「いはずしてもことかき待たるまじきこと葉」の中に記述がある。

 

ひよんなことといふを、ひよがいなこと、ひようげたことなどいふは如何と云り。是はひよんといふ木の実の、えもしれぬ物なるよりいへること葉歟。又瓢のなりのおかしう侍るより、しれぬことの上になぞらへて、ひようげたことと云初たるか。 又は、へんなことと云こと歟。へんなは、偏屈なること成るべし。いかさましらぬことなれば、物に書付けて置いてこそ、人にもたづね侍るべけれ。

 

安原貞室 著 『片言』巻五

安原貞室 著『片言』巻五

「いはずしてもことかき待たるまじきこと葉」

国立国会図書館ウェブサイトより転載

 

この中にある「ひよんといふ木の実」というのは「ひょんの実」というものらしく、イスノキにできる虫こぶ、つまりはこの木の葉を虫が食ったあとに出来る「こぶ」のことで、これがやけに奇妙だから・・・、というところからの由来という説である。またヒョンノキの名前の由来だが、この虫こぶの中が空洞になっており、唇にあてて吹くと「ひょんひょん」あるいは「ひょうひょう」と音がなるからだそうで、子供らがそれを笛にして遊んだとか遊ばないとか遊ばなかったとか。

 

ただ個人的には、虫こぶに唇をくっつけて「ひょんひょん」鳴らすという行為に関しては、ちょっとゾットするけれど・・・、まあ言葉の成り立ちというものは奥が深いし、果たして何が本当なのかもわからない辺りにおもしろみがあるのだろう。

 

ウェブログタイトル考察はまだまだ続く

というわけで、このウェブログのタイトル考察、天人から始まり、大いに脱線事故をおこしてひょんなことになってしまい、実はこの後「狒々門」あるいは「狒々」について語りたかったのだが、それはまた次回に繰り越そうと思う、やれやれ。

 

それでは、ウェブログタイトル『狒々門の奥の入江のむじな島にて。』についての考察【其ノ弐】「狒々」のこと、に続く。