狒々門の奥の入江のむじな島にて。

大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。

山口県の北西部にある天然の良港たる油谷湾と、それを形成する向津具(ムカツク)という奇妙な音を持つ半島の名前の由来。

山口県北西部にある油谷湾

日本海の南西部、山口県北西部に、「油谷湾(ゆやわん)」と呼ばれる湾がある。

 

山口県長門市にある油谷湾

山口県長門市にある油谷湾

 

湾口の幅は約4km、奥行きは約10km、最大水深は約40m、北側にある向津具(むかつく)半島よって形作られた湾であり、東西方向に伸び、西側に開けている。

 

 

なんで「むかつく」っていう名前なの?

この“むかつく”という奇妙な名前を持つ、油谷湾を形成する向津具半島は、山口県長門市にある日本海に突出する半島であり、突端部の「川尻岬」は本州最西北端地点でもある。

 

 

「向津具」という名前の由来に関してだが、勤子内親王(きんし/いそこないしんのう)の求めに応じた源順(みなもとのしたごう)著による平安時代の漢和辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して『和名抄』には郷名として「向國(むかつくに)」あるいは「武加津久爾(むかつくに)」と記されている。

 

源順 著『和名類聚抄』巻第八 長門國第百十八

源順 著『和名類聚抄』巻第八 長門國第百十八

国立国会図書館ウェブサイトより転載

 

また荘園時代には、「向津荘」・「向津奥(むかとく)荘」・「向徳(むかとく)」などと書かれている。

 

そして、防長(令制国周防国長門国であり現在の山口県長州藩の通称でもある)両国内の村々から、藩府「明細絵図方」に提出された「地下図」や「明細絵図」(まあ各種明細書みたいなものだね)を中心として編纂された一連の文書群『防長地下上申(ぼうちょうぢげじょうしん)』によれば、以下のようにある。

 

但向津具村と申は、往古向津村と申を在郷言葉にてむかとく村の、或ハむかつく村のと申となへくせのよし往古ハ先大津長崎抔之様成唐船之津之由、向津油谷内は粟野・井上・河原辺よりは向の津ニて御座候故、向津と申ならわし候由申伝候事

 

つまり、粟谷や伊上、河原の方から見ると“向うの津”であるから、「向津だよね!」と、そう呼ぶようになったということ。

 

この名は、飛鳥時代歌人柿本人麻呂」による以下の歌にも登場している。

 

向津の奥の入江のささ浪に のりかく海士の袖は濡れつつ

 

これは柿人麻呂が、石見国島根県)より九州・奈良方面への往還の際に、この地の景色を詠んだと言われている。ちなみに人麻呂が目に映した場所としては掛渕辺りだとか。

 

その辺りの郷名が時代とともに転じて、“むかつく”と、そう成るに至ったそうである。多くの方は、一見すると動詞の「ムカつく」(もともとは関西弁なのかな)に紐づけてしまいがちだと思うけれど・・・、あくまでも「向こうの津」であって、訪れると吐き気をもよおしてしまったり、意味もなく不愉快な気分になってしまうという呪われた禁足の地ではないので、あしからず。

 

天然の良港、油谷湾の地形と地理

さて油谷湾に話を戻すと、湾の本土部は、西は粟野東からザレ山、鶴羽山、天井ヶ岳を結ぶ山嶺によって西方の豊浦郡豊北町、南方の同じく豊浦郡豊田町に接し(現在では豊浦郡という名は消滅しており両町ともに下関市となっている)、更に南東方に長門市、東方には原岡山頂から北へ、山地から油谷平野を横切り、北の雨乞山から千畳敷を経て日本海岸へと、長い境界線で大津郡日置町(大津郡という名も消滅しており、現在の長門市となる、読み方は日置と書いて「へき」だよ)に隣接している。余談だが、日置氏(へきうじ、へきし)という名前はこの地に由来しているそうで、高句麗系渡来人の末裔とされる古代日本の氏族である。

 

この油谷湾入は、日本海岸には珍しい天然の良港として古くから知られており、戦前の山口県下にあっては、関門地域(彦島や武久)とともに朝鮮半島や大陸への航路の設定が幾度となく検討され、港湾機能の充実した関門の補助港としての役割を期待された。戦前期には、池田佐忠(いけだすけただ)によって、油谷湾の総合開発の中核として、油谷湾朝鮮半島蔚山を連絡する「油蔚(ゆじょう)航路」も計画されていたが、その後の戦争の激化によって頓挫してしまう。

 

油谷湾における海防施設(台場)の建設

地理的に海辺の好適地にあるということは、戦時下においては対外的に緊迫した状況にさらされてしまうということも意味し、もちろん油谷湾も例外ではなく、古くは幕末期に、油谷湾湾口の沿海部には異国船襲来に備えて4か所の台場(幕末に日本各地に設置された砲台で、まあ要塞の一種)が設けられ、また山頂部の井上台には狼煙場が設けられていた。当時の油谷湾の台場としては、「油谷島の泊」、「久津の黒崎(ニ尊院下)」、「平坊のらんとうの鼻」、そして「大浦の羅漢山」があったという。

 

ちなみにこの4か所の台場は、弘化元年(1844年)、萩藩の黒船手当掛である山田亦介と砲家の郡司源之允による海岸筋の踏査の報告書に基づき選定及び新設が行われたものである。この際、旧来より存在した「岬」、「油谷島の藻ヶ崎」、「俵島」の台場は防備上必ずしも適切な位置ではないとされたことから、先にあげた4か所に台場が新設されている。また、嘉永2年(1849年)には長州藩士の吉田松陰長門北浦海岸巡視の際に、この油谷湾巡検したことが松蔭の紀行『廻浦紀略』に記されている。

 

初八 宿を出で、陸を行く。宿の傍なる河内社内、砲を安んずべし。向津具の岬に至り、遠見番所に過ぎり、休憩少時。此れ西州最も斗出する處なり。此の岬臺場なくんばあるべからず。大浦に至る、人家二百戸。大浦より阿川・粟野・伊上に至る。皆三里と稱す、亦唯だ村父野老其の概を言ふのみ。粟野の如きは尤も近しとす。休憩少時、小舟に乗りて平坊山、ラントウの鼻の臺場を見る。此れより向ふ泊り崎迄十町位、久津浦に至り、二尊院下の臺場を見る。浦、人家五十軒、舟を轉じて泊り崎に至り、臺場を見る。陸路を取り、湯谷島に登り、狼煙場を見、羅漢山の臺場を見、御番所に至り浦究役後藤新左衛門を訪ふ、歸り宿す。

 

初九 船、大浦を發し、久津・久原・小田を遠見して過ぎ、河原に上陸し、官場を見る・・・

 

この中では、油谷島が「湯谷島」と書かれている点が少し興味深い。向津具半島の大浦の地峡から油谷島は主として玄武岩からなる火山地であるため、湯谷という表記には何やら温泉地帯めいたことを連想させる。地元の古老によれば、油谷の地名の由来は「油田があるためだ!」という話も聞いたが、詳細は不明である。更に別な視点として、大正の初期には油谷島のことを「オヤジマ」と呼んでいたらしく、これは祖先発祥の地を意味するものだとの見解もある。

 

もう一点、「浦究役」というのがちょっと気になったのだけれど、これは萩藩毛利氏の海防を担当する部署のようで、承応元年(1652年)に創始し、長門の瀬戸崎、向津具、須佐江崎、周防田島の4浦におかれていたようである。後藤新左衛門の詳細に関しては、ちょっと調べてみたけれど不明・・・。

 

吉田松陰 著『廻浦紀略』初八(嘉永二年七月八日) - 初九(同九日)

吉田松陰 著『廻浦紀略』初八(嘉永二年七月八日) - 初九(同九日)

国立国会図書館ウェブサイトより転載

 

当時の台場の1か所である「泊台場」は、現在「泊台場跡」として山口県長門市の指定史跡にもなっている。

 

 

けれどね、現状は何の案内板もなく、たどり着くのはなかなか至難の業、かつ、草にボーボーと、ボーボーボーと覆われていて、その全容を眺めること至極困難なり!

 

山口県長門市油谷向津具下にある泊台場跡

山口県長門市油谷向津具下にある泊台場跡

 

おいおい長門市よ、この場所は歴史上でも結構な価値ある場所だと思うのだよ。史跡に指定するくらいなら、もっとちゃんと管理しろや、もったいないだろ、と、ぼくはそう強く思うのである。まあ日本における指定史跡なんてものの扱いに関しては、おおよそこんなものが多いのだけれどね・・・。

 

油谷湾向津具半島には他にもいろいろあるぞ

というわけで、油谷湾向津具半島の概要をざっと書いてきたわけだが、この他にも、油谷湾内には竹島や手長島、江ノ島などの個性豊かな小島が点在している他、複数の漁港があったり、また湾周辺および向津具半島には気になる奇妙なスポットが数多く存在するので、その辺りにもよりディープに切り込んでいきたいと思う所存である、ってことで、ほんとうは今回、さらに点在する小島のことにも触れようとしていたのだけれど、長くなるので次回以降にまわすよ。