狒々門の奥の入江のむじな島にて。

大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。

狒々門の奥の入江のむじな島にて、ぼくはウェブログを書きはじめます。

嗚呼、遥か彼方の懐かしき東京よ。

東京を離れて、様々な土地をさまよい歩きはじめてから、約八年という歳月が過ぎ去った。

 

ちなみにぼくは東京の出身ではないのだけれど、いろいろな事情があり、東京で暮らしていた時間が長かったのだ。だからなんだか東京という所は、少し特別な場所に、結果的にだけれど、そうなってしまった。

 

そして、繰り返してみるが、東京を離れて、他の土地に何かを求めて、おそらくはあてもなく歩き出して、八年。

 

その行程や時間、長いんだか短いんだか、もはやよくわからないが、その間におそらくぼくはたくさんのものを目にして、聞いて、知って、嗅いで、あるいは食べて、笑って泣いて怒って、何度か恋もしてそれを失って、肩をがっくり落として地に跪いて、七転八倒苦しんで、けれど毎日料理をして、歌を歌って、大いに酒を飲んで、映画を観て、小説を書いて、そして未だに明日のことなんか微塵も考えずに、一歩一歩大いに道に迷いながら少しずつだけれど、なんだか先に進んでいるようだ。

 

気が付けば、また新たな見知らぬ土地にたどり着いていた。

 

その場所でぼくは圧倒的に出鼻を挫かれ、濃い緑色をした鼻血を吹き出し憤怒しつつも、けれど、しばらくこの辺りをウロウロしてみようと思うに至る。目下、いろんな問題点は山積みのような気もするのだが、そもそも問題なんてものは現状と目標との間にある障害のことであり、いまのぼくには現状という名のものはまあそこそこ、程々にあるにせよ、明確な目標たるものがそもそも存在していないので、その間にある障害なるものも至極曖昧模糊としており、あるいは不透明で不明瞭で変幻自在であり、それが果たして障害と呼べるものなのか、自身もよくわからないような有様なのだ。でもまあそれはそれとして、いいじゃないか。

 

ポジティブでしょ。

 

小学生の頃、それが果たして小学何年生の頃かは忘れてしまったが、通信簿の備考欄にこんなことが書かれていたことがある。

 

きみは、いつだって、ギリギリになって崖から落ちそうになる直前の直前まで、足を踏み外すその瞬間まで、本気を出しませんね。

 

その言葉を放った担任の先生の名前もすっかり忘れてしまった。何だっただろうか、ミセス・ウチダだったかな、ミス・マーブルだったか、たぶんそんなものだろうから仮にマーブル・ウチダとでもしておこう。いまでもぼくは、あの頃にマーブル・ウチダ先生から指摘されたぼくの性分を、まるで布袋の持つズタ袋みたいに引きずって生きているのかもしれない。そもそも持ち合わせた性分なんてものは、もう自らに同化してしまっているので、いやいや最初からぼくの一部なんだから、捨てられやしないのさ。

 

ちなみに布袋というのはご存知あの太鼓腹の超人的な人物、日本における七福神信仰の神の中で唯一実在した人物である。まあ実在したと言っても、史実に残る実在の人物というものは往々にして本当に実在した人間かどうかは定かではないし、今更それを証明することなど出来ない。ジーザスことイエス・キリスト(Jesus Christ)然り、聖徳太子然り、実在などしないとも言われる存在は多い。もしかしたらそういう存在は、たった1人の人物で、時々に人々の前に様々な姿でふらっと現れ、超人的な力を発揮する何者かなのかもしれない。布袋自身の言葉としても以下のようなものがあるし。

 

彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)

時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)

 

余談だが、ぼくはずいぶん昔、まだ東京に住んでいる頃に、皇居の堀端で“布袋”らしき存在に出くわしたことがある、布袋寅泰じゃないよ。例のズタ袋こそ持っていなかったが、あれは今思えば布袋だったのかもしれない。まあその話は、また別の機会に。

 

いま机の脇に打ち捨てられたiPhoneに着信があり、「今から夏に向けての畑の下ごしらえをするから手伝いに来てくれないか?」というミッションが近所に住むおばさまから与えられた。きょう、本当は一日映画を観て過ごそうと思っていたのだが、予定なんてものはあいもかわらず未定未定の山で、その先は先の先でまったく読めず、いつだって急展開があるのだ。だからこれから作業着に着替えて麦わら帽子を颯爽と冠って軍手をはめて、畑を耕しに向かうこととなる。

 

このプロローグの続きは、農作業の後にでも書き足そう。

 

というわけで、農作業を終えてクタクタになって帰ってきて、ジャンクなワインをガブ飲みして、昨日はそのまま眠ってしまったので、一日越しに再び書き出したプロローグの続きだが、そろそろ締めようかと思っている。

 

いまAmazon musicでは、ブルーノ・マーズ(Bruno Mars)の『The Lazy Song』が流れているからね。

 

Today I don’t feel like doing anything

 

 

まあそんなこんなで、とある僻地で暮らし始めたぼくは、ウェブログを書き始めることにした。

 

ウェブログのタイトルに関して、すっごく長い時間をかけて悩んだ挙げ句に、いまのぼくの居る場所のパラレルワールド的な様相を呈したものにしたいと思い、「狒々門」と呼ばれる場所の奥にある入江に浮かぶ島を想定した。

 

最初は、狒々がいない場所にしようと思い、「狒々無」という架空の地名を入れ込んだが、それから二日間悩んで、あえて狒々のいる場所という意味合いにすることにした。それも巨大な狒々のいる場所。

 

ただしその狒々の定義については、一般的なものではなく、ぼくが創造してゆく所存である。ああ、そうだ、「むじな島」というものについても、いろいろと定義してゆくよ。

 

「大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。」

 

狒々門の奥の入江のむじな島にて。

 

たぶん、自由気ままに、雑多な雑煮のように、いろんなことを書くと思うけれど、もしよければ読んでください。

 

狒々門の奥の入江のむじな島にて、ぼくはウェブログを書きはじめます。