狒々門の奥の入江のむじな島にて。

大猿の如きものを連れた天人らしきものを見たあの日から、ぼくはずっとここにいます。

「サコンタロウ」とは何者か?山口県長門市油谷の向津具半島にある「サコンタロウの墓」の謎。

コンタロウの墓

山口県長門市の油谷にある向津具半島には、「サコンタロウの墓」と呼ばれる古い五輪塔群が存在する場所がある。

 

「サコンタロウの墓」と呼ばれる五輪塔群

「サコンタロウの墓」と呼ばれる五輪塔

 

このサコンタロウの墓、いろいろ初っ端から謎多きこと甚だしいが、ちなみにこの場所はかつて「迫田(さこた)」という地名で呼ばれた場所であり、明らかにこのサコンタロウという名前との関係性が伺えるが、それだけでは満腹には程遠いので、さらなる考察にしばしお付き合い願いたい。

 

コンタロウの墓は、ここにあるよ。

 

 

コンタロウって誰?

コンタロウの墓というくらいなので、そのまま直球だがサコンタロウという人物が死んだ後に供養として建てられた五輪塔なのだろうが、まず墓だと言われる五輪塔は単体ではなく無数の五輪塔群だということ。

 

コンタロウを含む家族や親類の墓場なのか?あるいはサコンタロウという名のなんらかの組織集団の墓場なのか?本当に墓場としての五輪塔群なのか?何かを隠蔽するためのフェイク、あるいは演出的な場所ではないのか?

 

そもそも、サコンタロウとは誰なのか?

 

というわけで、少しだけこのサコンタロウの墓について考察してみよう。

 

コンタロウを様々な角度から考察してみる

まずその名前、サコンタロウと聞くと、漢字では「左近太郎」かなと、当初この名前を耳にした際には思ったのだが、まず調べてみると、九州地方(鹿児島)には「迫ン太郎(サコンタロウ)」という語彙が存在する。

 

これは、谷川の水の流れを利用した一種の米つき機の名称で、精米機のなかった頃、モミや玄米を精米するために利用されていたという。「迫」とは小さな谷を意味する言葉で、谷川の水が途切れなければ働き続けるその姿を擬人化して、働き者の太郎という名を付け、迫ン太郎と呼ぶようになったとか。ちなみに太郎とは、日本の男性名として例文などで不特定の男性を示す時に用いられる名前だが、これは「~ばかりしている者」を示す時に用いられるケースも多い。

 

つまり小さな谷で米つきばかりして、働いてばかりいる者が、サコンタロウなのであろう。

 

またこれに関連して、同じく九州地方(大分)には、陶器原料の製造機として、前述の迫ン太郎と同種の「水唐臼(みずからうす)」あるいは「添水唐臼(そうずからうす)」というもが存在する。これは地方によって様々な呼び方があり、「バッタリ」、「ギットン」、「ガッタリ」などと呼んだりもするそうだが、山口県ではこれを「サコンタ」と呼ぶそうである。

 

さらに余談であるが、「鹿威し(ししおどし)」のことをサコンタロウと呼ぶ地域もある。ちなみに鹿威しとはご存知のように、田畑を荒らす鳥獣を威嚇し追い払う為に設けられる装置類のことであり、前述の二つの例と同様の仕組みを動力として動くものであるが、源平合戦における「一ノ谷の戦い」の中で、「鹿」というキーワードが存在することが、この後に考察する「平家の落人伝説」とサコンタロウの墓との関連性として、ここで少しだけ気がかりとなる。

 

一ノ谷の戦いの鹿の記述とは、『平家物語』による行、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきた際に、猟師が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は「鹿はこの道を越えるか?」と問い、それに対して猟師は、「冬を挟んで餌場を求め鹿が往復する」と答えた。すると義経は、「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い、案内するよう求めたが、老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介した、という話。

 

下村時房『平家物語』- 巻九 「老馬」

下村時房『平家物語』- 巻九 「老馬」

国立国会図書館ウェブサイトより転載

 

源平合戦図屏風 - 海北友雪

源平合戦図屏風「一の谷合戦」- 海北友雪

東京富士美術館 所蔵

 

話を戻そう。

 

つまりサコンタロウとは、誰か特定の人物を指し示すものではなく、この一連の道具、あるいは何か別のものの名前を指していると考えられる。

 

さてでは、別軸として地名となっている「迫田」に注目してみよう。

 

この迫田とは、日本の九州地方に多く見られる地名だそうだが、一方で、「迫田氏」という氏族の名前が、かつての長門国に存在する。とすると、この迫田氏にまつわる墓石群なのであろうか?

 

平家の落人伝説との関連

一方で、この山口県長門市油谷の向津具半島には、俗にいう「平家の落人伝説」が数多く伝えられており、このサコンタロウの墓と呼ばれる五輪塔群も、平家の落人の墓ではないのかと言われている。

 

平家の落人伝説とは、治承・寿永の乱源平合戦)において敗北した平家の一門およびその郎党、平家方に加担した者が僻地に逃れ隠遁したという伝承である。ちなみにであるが、平家の落人伝説にある誤解として、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同があるが、平家の落人という呼称が意味するものは、「平家方に与して落ち延びた者」であり、もちろんそこには平家一門も含まれるのだが、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の場合もある。

 

源平合戦図屏風「屋島合戦」- 海北友雪

源平合戦図屏風「屋島合戦」- 海北友雪

東京富士美術館 所蔵

 

ただし、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡して隠遁した者たちの話であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ないと言われている。また、この平家の落人伝説の中には捏造されたものも存在し、後世の捏造文書などが多数書かれているため、真実の探求を大いに妨げていると言われている。

 

『防長地下上申』に記された平家落人伝説

『防長地下上申』の「先大津郡向津具村由来」には、いくつかの平家の落人伝説が記されている。

 

一小名之内白木村と申は、往来平家赤間関よりおち被申、かりニ白木の御所作り被申候由ニて白木村と申ならわし候由ニ御座候へとも、不分明儀ニ御座候事

 

これは「白木(しらき)」という場所の名前の由来が、平家の落人として逃げ延びた人の建てた白木の御所にあるというもの、だが、この地には他にも、三韓征伐後に新羅の人々が移住してきた場所なので、シラギ→シラキとなった、という伝承も残っている。

 

地元の古老の話によれば、その白木の御所には、入水したと言われる安徳天皇が住んでいたとのことだが、これは安徳天皇は壇ノ浦で入水せず平氏の残党に警護されて地方に落ち延びたとする伝説で、全国的にあるよね・・・。そのため真偽は定かではない。

 

『大浦漁業史』には、壇ノ浦の合戦後、安徳天皇の入水時に、「大浦漁女潜水探索するという」なる記述があるらしいが・・・。

 

この他にも、『防長地下上申』には「古キ墓所」として平家落人の墓だと言われる五輪塔群の存在が記されている。

 

一古キ墓所 油谷島ニ有り

但門わき・友国・貞国・則国、此四ヶ所之内則国と申は只今田畠開立、いつれはか所とも存シ申たる者無御座候、残り三ヶ所ハ五輪抔無名之分石ニて組立御座候壱ヶ所ハ門脇、一ヶ所は友国、一ヶ所は貞国、何も平家赤間関より往古落人居住被仕故、其屋敷只今は田畠ほのぎニ相成、于今のり国・貞国・友国・門脇と申候事

 

ここに記された、門脇・友国・貞国・則国の他にも、この向津具エリアには五輪塔群が存在する場所は多数見受けられる、宗清とか宗信とか呼ばれる地域にも、そしてその他にも探せば山のように五輪塔群がゴロゴロあるのだ。

 

「サコンタロウの墓」の古い写真

「サコンタロウの墓」の古い写真

 

しかし、サコンタロウの墓に関しての記述は、見つけることが出来なかった。

 

コンタロウの墓ってなんだよ?

というわけで、結局サコンタロウの墓とはなんなのかという問題だが、前述の平家落人の墓だとされる多くの場所には、それらしき人名のような地名が残っているが、先にも書いているように、元々が逃亡して隠遁した者たちが、あえて自分たちの名前を土地の名に残すのかという疑問がある。

 

まあ先にも述べたが平家落人の中には様々な人々が含まれているので、特に追手の心配などないような人々は、自分の名前を土地に残すかもしれないが・・・。

 

ただサコンタロウに関しては、おそらく古い時代には、自分たちの存在を隠すために、あえての名もなき五輪塔群だったために、その隠蔽の延長として「サコンタロウ」というなにやら不特定多数のような名で呼ばれるようになったのではないだろうか。前述のサコンタという技術は、豊臣秀吉が朝鮮から連れて帰った陶工によってもたらされたというので、命名時期としてそれ以降ではないのだろうか?

 

また前述の、鹿威しのことをサコンタロウと呼ぶことと、『平家物語』の一の谷合戦における「鵯越の逆落とし」の行との関係性、鹿が往来する険阻を馬で駆け下りて奇襲をかけたとされる源氏をもし鹿に例えるとするならば、平家はある意味鹿を脅かすもの、つまりサコンタロウである。

 

とすると、それ以前にその墓所は名もなき墓所だったか、あるいは他の名前で呼ばれていたという可能性もあるような気がする。それを隠すために、あえてサコンタロウなどという暗号めいた名前を付けているのかもしれないし、だからもしかしたら、落人本命の平家一門の墓の群れかもしれないということは否定できない、そもそも何かしらのフェイクなのか、あるいは鹿威したる平家一門の墓なのか・・・?

 

平家の落人にはどれだけの追手がかけられていたのか?落人狩りのようなものが存在したのか?現時点でその辺りのことに無知なぼくには、この謎を解き明かすことは難しそうなので、さらなる調査が必要であろう。

 

ちなみに、五輪塔のことに関して触れるのをすっかり忘れていたが、それはまた別の五輪塔群紹介の際に、詳細に触れることにしよう。

 

「サコンタロウの墓」と呼ばれる五輪塔群

「サコンタロウの墓」と呼ばれる五輪塔

 

そんなわけで、謎を秘めた「サコンタロウの墓」、興味のある方、平家の落人愛好家や、あるいは五輪塔愛好家にもおすすめっちゃ〜おすすめなので、是非にも訪れていただきたい。