山口県長門市の油谷にある聖域、「猿神森(サルガミノモリ)」とはなにか?
山口県長門市油谷にある「猿神森」という場所
山口県長門市の油谷湾に浮かぶ小島「手長島」の名前の由来がテナガザルにあるという仮説を受け(まあ勝手な異端説ではあるが・・・、)、この地方の“猿”に関する事柄を調べていたところ、『防長地下上申(ぼうちょうぢげじょうしん)』における「大津郡河原村諸事由来覚書」中にある以下ような行が目に止まった。
※「手長島」の詳細については以下の記事を参照していただきたい。
※『防長地下上申』の詳細については以下の記事を参照していただきたい。
森数之事
一河内森 西坂根ニ有
一河内森 東坂根ニ有
一大歳森 石原ニ有
一貴布祢森 同所ニ有
一水神森 せうふニ有
一猿神森 河原浦ニ有
右森之内、猿神森と申ハ外ニ由緒等も無御座候、先年猿をころし申候故、只様たゝり有之候故、猿神ニいわひ申之由申伝候、其外貴布祢森・水神森・大歳森・河内森と計申伝、由緒無御座候事
これは河原村にある森の数とその名称、そして所在地を記したものだが、その中に「一猿神森 河原浦ニ有」とある。つまり、河原浦という場所に、「猿神森(サルガミノモリ)」という名の森があると書かれている。そして、「先年猿をころし申候故、只様たゝり有之候故、猿神ニいわひ申之由申伝候」とある。
猿を殺したら祟りがあって、おそらくはそれをおさえるために神として祀ったから云々・・・、これは非常に気になる。
長門国大津郡河原村のこと
さて、まずはこの猿神森があるとされる河原浦(かわらうら)についてであるが、これはかつての長門国大津郡河原村(ながとくにおおつぐんかわらむら)に位置する場所である。『防長地下上申』によれば、河原村の名前の由来の詳細は特に伝わっていないようだが、以下のようにある。
一河原村
但往古よりいかやうの子細ニて河原村と申候哉、其由緒申伝ハ無御座候、然共当村南の方、長府御領一ノ俣境、西坂根山、法師か峠山、東ノ方俵山境のしやりか峠山・篝山と申、段々深山有之、此深山の谷々浴々より流出候川筋ふとく御座候ニ付、往古ハ右之川下故河原ニて有之、因茲河原村と申ならハしたるにて可有御座候哉と地下人申伝事候
まあ、周囲の山々から流れ出た川筋の太い川の川下の河原にあるから、河原村という名前だろうと、そのようなことであろう。
そしてこの河原村にある河原浦という場所だが、以下のようにある。
一河原浦
但此浦年中諸猟無御座候事、尤猟船無之、河原之者ハ時ニ懸淵え被雇候て猟仕候事
船数五艘 廻船
浦という名前から、入江になっていたのだろう。猟船は無いが廻船が五艘とあるので港だったのであろうか。またこの河原浦には「笠岩」なるものがあるとも記されている。
一笠岩 河原浦ニ有
但此岩笠なりたる岩故、笠岩と申伝候事
また『長門國風土記(ながとくにふどき)』には、船の数に関して以下のような記述がある。
一舩数
舩惣数三艘
内
廻船弐艘
内
三百石積壱艘
ニ百石積壱艘
漁船壱艘
『防長地下上申』は全巻にわたると、享保12年(1727年)から宝暦3年(1753年)にかけての27年の間に上申されたものであり、天保12年(1841年)に上申が命じられている『長門國風土記』(『防長風土注進案(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)』とも)にかなり先行するものである。まあ、『防長地下上申』は、いわば原型とも呼ぶべきものであり、100年以上も隔たりがあるので、港の状況なども変遷していると思われる。
そして、『長門國風土記』には猿神森の記述は見つからなかった。
「猿神」というもの
さてでは、河原村の河原浦にある「猿神森」に話を戻そう。
「猿神(さるがみ)」とは簡単に言うと、古来より猿を神もしくはその眷属として敬い祀る信仰であり、猿がぼくたち人間に似ているところから、古より猿は「山の神」だとしても敬われてきた。また、日本神話における神「サルタビコノカミ」あるいは「サルタヒコノカミ」に結び付けられたり、中国道教における「三尸説(さんしせつ)」と日本の民俗信仰が複雑に絡み合って成立した「庚申信仰」と結び付いて、庚申塚における「見ざる聞かざる言わざる」の三猿の彫り物、あるいは三猿の石像として祀られている姿を見かけることも多い。
庚申信仰と三猿
三猿という概念は日本のものだと思われがちであるが、あの3匹の猿というモチーフ自体は古代エジプト建築やヒンドゥー教の寺院建築の中にも見られるもので、どうやらシルクロードを伝って中国を経由し日本に入ってきたのではないかと言われている。
日本で見られる三猿が彫られた庚申塔は、前述のように中国道教の庚申信仰に由来するものであり、人間の体内に巣食うと言われる「三尸虫」が庚申の日の夜に体内を抜け出し、その人物の悪行を天帝に密告しに行くのを防ぐための儀式をやり終えた証に建造する塔である。
「見ざる聞かざる言わざる」が彫られているのは、つまりは自らの悪行を「見ない聞かない言わない」という意味合いからであろうか。ちなみにかの南方熊楠によれば、庚申塔の青面金剛と猿の関係はインドに起源があり、青面金剛はインドの『ラーマーヤナ』の主人公であるラーマの本体たるヴィシュヌ神の転化であり、三猿はラーマに仕えたハヌマーンだという。
「厩猿」という信仰
他にも「厩猿(うまやざる)」という民俗信仰があり、馬小屋に猿の頭蓋骨や手の骨を祀り、馬の安産や健康あるいは厩の衛生などを祈願する風習が残る地域もある。これに関連して、厩の守護神として「猿駒引(さるこまびき)」の絵馬を掲げる風習もある。ちなみに「駒引」という語彙は、そもそもは馬を引くこと、あるいはその者を指す言葉だが、河童が馬を水の中に引きずり込む行為を指す語彙としても用いられており、猿駒引と河童駒引との深い関連性が指摘されている。
妖怪あるいは化物としての猿神
一方で、岡山県や岐阜県には、荒ぶる神(悪神)としての猿神に生贄を供える、いわゆる人身御供の話が伝えられている。これは俗にいう「猿神退治」に類する話で、この猿神は大きな三匹の「猿」あるいは「狒々」であったという話が多く、まあこの伝承における猿神とは荒ぶる神や悪伸などと言えども、結局はいわゆる神ではなく妖怪か化物の類である。また、この大猿あるいは大狒々の天敵として、犬あるいは山犬が登場するケースが多い。
「猿神憑き」というもの
四国地方や岡山県には「猿神憑き」という憑き物が存在するという話もある。詳細に関して一般的にはあまりよく知られていないが、ぼくは確か『図説 憑物呪法全書』という書籍でその名を目にした記憶がある。
河原浦にある猿神森の祟とは?
前述の『防長地下上申』には、猿神森の由来として、猿を殺して祟りがあったので、猿神を祀った森だというようなことが書かれていた。
孕み猿の祟の話
これに非常に近い話として愛媛県には「猿神様」という語彙が存在し、昔々、村人が森で身ごもった雌の猿を撃とうとしたところ、猿が両手を合わせて拝むようにして救いを求めたという。しかしその村人は猿を撃ち殺してしまった。その後に、部落内では様々な災いが巻き起こったため、宮を建てて「猿神様」として祀ることになったという。
これはいわゆる「孕み猿(はらみざる)」と呼ばれる祟の類で、身ごもった猿(孕み猿)を撃ったりすると、撃った者の身内に不幸が起こったり、妻の出産が大変になったり、流産するといわれている。またもし子供が生まれても、子供は猿に似た子あるいは、猿のように四足であるくような子が生まれると言われている。
また茨城県にも同じような話があり、猿の祟として、山で孕み猿が命乞いをするのを無視して殺したところ、猿と寸分違わぬ顔の女の子が生まれてきて、3人までもが唖の娘であったという。これが猿殺しの祟りだといわれたそうである。
これらはいずれも、「孕み猿の祟」と称される一群の話である。
おそらく河原浦にある猿神森の由来は、このケースなのではないのだろうか。
河原村に猿はいたのか?
ここでひとつ気になることがある。前述の『長門國風土記』に記された「禽獸之類」の中に、猿がいないのである・・・(あれ、見落としているのかな、いないよね)。しかし、猿神森の記述があるのは『防長地下上申』であり、後発の『長門國風土記』にその記述は見当たらない。
ということは、遡ること約100年ほど前には、河原村にも猿がいたのだろうか?「先年猿をころし申候故」とあるので、去年か、あるいは数年前の出来事だと思われる。つまり1700年代の前半の話であろう。
あるいは河原村に住む誰かが村のもっと奥にある山で猿を殺したが、猿神を祀ったのは河原浦の森の中だったということなのだろうか?
ということはつまり、猿神森自体に祟りの伝承があるというわけではないのかもしれない。ぼくは当初、この猿神の森が「モイドン」あるいは「モリサマ」のようなものかと思っていたのだが・・・。
猿神森を探しに出かけよう!
いずれにせよ、机の上で書籍に目を通していても、その先には何も進まないので、実際にこの猿神森を探しにフィールドワークに行ってきたので、次回はその様子をサクッとお届けしたいと思いながら、話も長くなったので今回は締めさせていただこう。